あのころの未来: Neuromancer, William Gibson
ニューロマンサー ウィリアム・ギブソン
Say goodbye to your stale old futures: Neuromancer by William Gibson

Jun Rekimoto : 暦本純一
7 min readJun 27, 2015

(情報処理学会学会誌2015 年8月号用に依頼された原稿です)

“The sky above the port was the color of television, tuned to a dead channel. (港の空の色は、空きチャンネルに合わせたテレビの色だった)” という、SF史上屈指のスタイリッシュな書き出しで始まるWilliam Gibsonのニューロマンサー(Neuromancer)。出版されてもう30年になる。元祖サイバーパンク。そして翻訳家の黒丸尚はGibsonの造語 cyberspaceに「電脳空間」という訳語を当てた。その後のSFはまさにサイバースペース、サイバーパンクを無視しては語れなくなった。

ニューロマンサー以前のSFでは、Arthur C.Clarkeの「2001年宇宙の旅」でのHALや、James Tiptree, Jr. の「接続された女 (A girl who was plugged in)」のような少数の例はあるものの、情報技術の未来に正面から取り組んだ作品は案外と少なかった。宇宙もの、タイムマシンもの、ロボットものはあっても「コンピュータもの」のSF は当時は未開拓の領域だった。

そこに忽然と登場したのがGibsonだった。最初は科学雑誌OMNIに掲載された短編「クローム襲撃(Burning chrome)」。コンピュータの作り出す電脳空間に没入(jack in)して活動する電脳カウボーイたちが登場する。それに続く第一長編がニューロマンサーであり、SF史上初の三冠(ヒューゴー賞、ネビュラ賞、そしてフィリップ・K・ディック賞)に輝く。その後、同じ世界観の長編二編(カウント・ゼロおよびモナリザ・オーバードライブ)と続き、この3作はスプロール・シリーズと呼ばれSF界のサイバーパンクへの潮流を決定的なものとした。同じくサイバーパンクSF作家のBruce SterlingはNeuromancerを「お馴染みの、古くさい未来とはおさらばだ(Say goodbye to your stale old futures.)」と賞した。

ニューロマンサーが生まれた1984年、インターネットはまだ一般化されておらず、国内では公衆回線とUUCPによるネットワークJUNETがようやく開始されていた程度だった。コンピュータもPC/ATやMacintoshが登場したものの、まだ主流はZ80などの8bitパソコンだった。実際、Gibsonはこの小説をワードプロセッサではなく機械式のタイプライタで書いたといわれている。その時代に描かれた「未来」はいったいどんなものだったのだろうか。

電脳空間(cyberspace), 没入(jack in) : まずサイバースペース(電脳空間)。コンピュータが作り出す仮想の世界に脳とコンピュータを直結して全感覚で没入(jack in)する姿が描かれている。この世界はthe Matrixとも呼ばれ、映画の「マトリックス」やコミックの攻殻機動隊にも大きな影響を与えている。頭に装着する電極はトロード、没入装置はサイバースペースデッキと呼ばれていた。そのメーカーは技術超先端国と設定されている日本製とおぼしき、Ono-SendaiあるいはHosaka。そもそも小説の最初の場面はチバシティのバーであるし、三菱・日立・ニコン(ナイコン)など現存する日本企業の名称も多く登場し、いまでは隔世の感もある。当時まだVRという用語は使用されていなかった。VPL ResearchのJaron Lanierが”virtual reality”という用語を「発明」するのはニューロマンサーの出版から数年が経過した1987年のことである。

擬験 (simstim) : 電脳空間はコンピュータ内の仮想的な情報世界だが、ある人間の感覚の世界にjack inするのが「疑験」だ。simulated stimuliの略称とされる。これを擬験と訳したのも黒丸氏の天才的な言語感覚だろう。小説では他人に擬験jack inした瞬間に、骨折の激痛までも受けとめてしまう状況が描かれている。擬験は人間の体験をそのままライブに伝送して追体験するという感覚のコンテンツでもある。小説のなかではタリー・アイシャムという「疑験スター」が登場する。疑験に類似したアイデアは、ニューロマンサーの直前に製作されたSF映画「ブレインストーム」でも登場している。ブレインストームは2001年宇宙の旅の特殊効果監督であったDouglas Trumbullの監督作品で、BMI (brain-machine interface)技術の応用によりある人間が経験した五感情報が記録・伝送できるという技術が主題となっている。ブレインストームでも擬験と同様にヘッドセットを頭に装着して感覚を記録する。

筆者らが研究しているJackInと呼ぶプロジェクトはまさにこの擬験やjack inからインスパイアされたものである。脳への直接インタフェースではないが、頭部搭載型の全周囲映像カメラなどによりある人間をとりまく視聴覚環境を取得しネットワーク伝送する。その環境に別の人間がjack inすることで、体験を共有したり、利用者の作業を支援・拡張したりすることができる。疑験と同様、体験記録や体験ライブ放送などへの応用を検討している(JackIn Head project page)。

擬態ポリカーボン(mimetic polycarbon):日本では攻殻機動隊の光学迷彩の名称でも知られているが、元祖はこちら。衣服表面の視覚効果を変更することで装着者を否可視にする。メタマテリアル素材により光の経路を変更することで物質を透明化する研究も進められている。

チューリング(Turing)あるいはチューリング警察 (Turing Police): ニューロマンサーの世界では、人工知能は過度に発達しないように法規制されている。その監視組織がチューリング警察である。30年前に読んだときには、これは極めてSF的であり思弁的な発想だと感心したのを憶えている。当時のAIはエキスパートシステムやチェスプログラムなど、性能からも規模からも人類に危険を及ぼすという段階にはまったく達していなかった。しかし、最近になってStephen Hawking、Bill Joy、Elon Muskなど多くの識者や実業家がチューリング警察ばりに人工知能の危険性についての懸念を表明している。AIの法的規制はあながち空想の話ではなくなってきた。巨大情報システムへの懸念もあり、欧州議会はGoogleに代表される検索エンジンサービスの分割を提案している。一方、Ray Kurzweilは、近未来に人工知能の進展速度が人類が把握できない段階に達すると予測し、それをシンギュラリティと呼んでいる。法規制によってシンギュラリティを止めることになるのか、人類を置き去って人工知能は先に行ってしまうのか、30年前にニューロマンサーが設定した課題は、いまやより拡大して人類に対峙しているのである。

暦本純一(れきもとじゅんいち)

東京大学大学院情報学環教授、ソニーコンピュータサイエンス研究所副所長。理学博士。ヒューマンコンピュータインタラクションおよびテクノロジーによる人間の拡張を研究する。2003年日本文化デザイン賞、 2007年ACM SIGCHI Academy, 2013年 日本ソフトウェア科学会基礎研究賞、ACM UIST Lasting Impact Awardを受賞。

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Jun Rekimoto : 暦本純一
Jun Rekimoto : 暦本純一

Written by Jun Rekimoto : 暦本純一

人間とテクノロジーの未来を探求しています。Human Augmentation, Human-AI Integration, Prof.@ University of Tokyo, Sony CSL Fellow & SoyCSLKyoto Director, Ph.D. http://t.co/ZG8wEKTvkK

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