テクノロジーの生態史観

テクニウム: テクノロジーはどこへ向かうのか (解説)
K. ケリー (服部桂 訳)
みずず書房

高校生のころに梅棹忠夫の「文明の生態史観」[1]を読んで強い印象を受けた。有名な本なのでご存知の方も多いと思うが、文明の進展をアジアやヨーロッパの空間的構造やそれに付随する生態系の変遷として論じている。たとえば日本と英国はどちらもユーラシア大陸の端に位置する島国で、生態系における立場が似ているので文明・文化的に類似点が多い。生態史観によれば文明の発展は植物相における針葉樹林帯や広葉樹林帯の変遷などと基本的には同じであり、生態系の環境への適応の問題にすぎないという恐ろしく俯瞰した発想に衝撃を受けたのを覚えている。

それから十数年後、これもベストセラーとなったジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」[2] を読んだときに、言っていることは本質的には文明の生態史観と同じだと感じた。ダイアモンドによれば、文明がアメリカ大陸よりもユーラシア大陸でまず発展したのは地形の差が要因となっている。東西に広がっているユーラシア大陸では農業などのテクノロジーが伝搬していったが、南北に延びているアメリカ大陸では気候の差がそれを阻害した。このように文明を生態系として考えるというのが両者に共通した見解だ。

さて本題のテクニウムだが、なぜ梅棹とダイアモンドの紹介をしたかというと、本書で扱っている題材がまさに「テクノロジーの生態史観」とでも呼ぶべきものだからだ。技術は人間が作り出した人工物にすぎず、それ自身が意思を持っているわけではなく、人間が便利に使う道具以上のものではない…というのが従来の技術観だったとすると、本書で想定しているテクノロジーは人間の思惑を超え、生物のように進化し、時代とともに複雑化・高度化し、あるいは遍在化するものである。

このような「生態系としての技術」を本書では「テクニウム」と呼んでいる。テクニウムは他の技術や社会などとの相互作用からなる複雑系なので、発展の方向や社会への影響は創造者である人間でも予測がむずかしい。自動車の発明者は「馬のない馬車」は想像できたかもしれないが、モータリゼーションによって発生した都市や郊外という概念、あるいは大気汚染などの問題を予測しえただろうか。コンピュータやインターネットも、発明者の当初の想像の限界を超えて進展している。人類は技術の創造者であると同時に、技術そのものが生命のように進化していく過程での同居人あるいは一要素になるのかもしれない。技術の進展が逆に人間の発想や思想すらも変えていく。

かつてドーキンスが、利己的な遺伝子として、生命は遺伝子を次世代に伝承するための乗り物に過ぎないという考え方を提唱したが、本書が想定している技術も人類が作り出したものという範疇にはおさまらない。テクニウムは何に向かって進化しているのか、我々に要求するものは何か、我々は技術によって幸福になれるのか、という問題を投げかけている。技術史家のクランツバーグも言うように、技術は善でも悪でもなく、その中庸ですらない。

  1. 梅棹忠夫「文明の生態史観」中央公論社 1967 amazon
  2. ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」草思社 2013 amazon

(AXIS vol.176 本づくし 依頼原稿です)

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Jun Rekimoto : 暦本純一

人間とテクノロジーの未来を探求しています。Human Augmentation, Human-AI Integration, Prof.@ University of Tokyo, Sony CSL Fellow & SoyCSLKyoto Director, Ph.D. http://t.co/ZG8wEKTvkK