メディアの再生速度を変える可能性
フルトヴェングラーを1.5倍速で聴く新体験、あるいは新たな現実歪曲空間
上の記事を見て。Netflixに昨年から速度調整機能がついていて、映画を1.5倍速で観る人が増えているそうだ。映画内容を効率的に把握したい、台詞がない部分が退屈、など高速再生する理由はいろいろだが、映像表現としての時間の流れを、「効率化」のために視聴者側で勝手に変えてしまっていいのだろうか、という懸念が記事全体としては表明されている。
もっとも、YouTubeではもっと前から速度変更機能は提供されている。昨年のコロナ感染で、講義資料や学会発表などがYouTubeに置かれることが一般的になり、それを閲覧するときにも1.5倍程度の高速再生は普通に利用されている。「倍速で講義ビデオを見た学生には単位は出さない」と言った先生がいたらしく、いっときtwitterで炎上していたが、さすがに今ではそういう主張をしている講師はいないのではないだろうか。
しかし、講義ビデオなら速度を変えることも納得できるが、映像作品、ましてや音楽だったらどうなるだろう。
上の記事では、
「それを「飛ばす」「倍速で観る」だなんて。たとえるなら、『第九』や『天城越え』や『マリーゴールド』を、倍速で聴いたり、サビ以外を飛ばして聴くようなものだ。そんな聴き方で叙情や滋味を堪能できるのだろうか。あえて感情的に言うなら、それはアーティストへの冒涜ではないのか。」
と批判している。たしかに音楽の速度を勝手に変えて聴くのは作曲家や演奏家の領域に聴取者が踏み込んでしまっているような気もする。
本当にそうなのだろうか。と思って実験をしてみた。
題材は記事でも挙げられている(ベートーヴェンの)交響曲第9番。なかでもたぶんいちばん冒涜してはいけなさそうな「フルトヴェングラーの第9」をとりあげてみる。1951年のバイロイト音楽祭で演奏された、第9の録音として最も有名なものの一つだ。歴史的な価値もさることながら、いまだにこれを第9のベスト演奏だとする愛好家も多い。
ただし、遅い。
フルトヴェングラーの後期ロマン主義的音楽感がテンポにも反映していて全体的に遅い。とくに3楽章が天国的に遅い。崇高な演奏ではあるが、ベートーヴェンの古典派交響曲として本来の速度なのか、というとそうではない。ベートーヴェン研究がより進んだ現在では、フルトヴェングラーよりも速めに演奏することが一般的になっている。
ということで、この有名な「バイロイトの第9」を1.25倍、 1.5倍、2倍で聴いてみた。
(YouTubeの右下の設定ボタンをクリックして速度設定ができるので試してみて下さい)
聴いてみると、予想していたよりもはるかに自然だ。2倍はさすがに滑稽だが、1.25倍、1.5倍は音楽としてちゃんと聴ける(速度を変えてもピッチは変化しない)。とくに1.25倍は元の演奏を知らなかったら再生速度を変えているとは気づかないだろう。フルトヴェングラーの響きの重厚さはそのままに、速度だけ現代的になった感覚が新鮮だ。これならオリジナルの演奏の「遅さ」が耐えられなかった方でも楽しめるだろう。
フルトヴェングラーの第9の演奏時間は1時間14分。一方、現代的な「速い」演奏の代表でもあるガーディナー指揮ORR版の演奏時間は59分。つまりフルトヴェングラーを1.25倍するとガーディナー版の演奏速度になる。という意味でも1.25倍はフルトヴェングラー演奏を現代的に鑑賞するひとつの方法ではないかと感じた。
メディア再生装置には音量を調整するボリュームがついている。フルオーケストラの音量を絞って小さく聴くことは普通に行われている。だったら速度を調整するツマミがあってもいいのではないか。
これは演奏家への冒涜か、あるいはメディア視聴の新しい可能性なのだろうか。
フルトヴェングラー以外にも少しためしてみた。テンポが遅めの演奏として有名なチェリヴィダッケの「展覧会の絵」。これも1.25倍ぐらいで聴くと気持ちがいい..
グレン・グールドのバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1981年版、2回目の録音)。これも、1.25倍で聴くと1955年版のような溌剌さがよみがえってくる。
不自然さがないどころか、1.25倍速で聴く81年版がグールドのベスト演奏に思えてくる。しかしこれは、速度変更機能が作り出した、現実には弾かれたことのない演奏なのだ。
ぜひ1955年版と聴き比べてみてほしい:
遅いと言えばこれ。グールドとレナード・バーンスタインによるブラームスピアノ協奏曲第一番。グールドの主張するテンポがあまりに遅く、コンサート前にバーンスタインが「これは私のテンポではありません」とわざわざ注釈してから演奏をはじめたというエピソードがある:
しかし1.25倍速で聴くと逆に普通でかえって面白みがないかもしれない。。
という感じできりがなくなってきたが、逆に時間を遅く再生する可能性はないだろうか。
極端な例では、映画の1秒(24フレーム)を1時間かけて再生する「The Very Slow Media Player」というメディア・アート作品がある:
ここまで遅くすると、もはや映画作家の意図する時間表現とは隔絶した、別種の作品が誕生している。映像オブジェとしてこういう方向もあるだろう。
もう少し現実的には、エクササイズビデオの速度変更がある。ラジオ体操を半分の速度で再生してやってみると、普通のラジオ体操よりもはるかにじっくりできて練習効果が見込めそうだ:
たとえば小説なら、ページを繰る速度までは作者は指定しないし、絵画や彫刻でも「観る順番や速度」を指定することはない。音楽・演劇・映像作品は時間の流れも表現の一部だったが、それを変更できる技術的な可能性が出てきた。考えてみれば、作曲家が楽譜に指定した速度ではない速度で演奏することは表現としては認められている。最初に挙げたフルトヴェングラーの演奏も、ベートーヴェンが譜面に記載したメトロノーム記号からは大きく逸脱している(むしろそれを1.25倍ぐらいで聴くのは、ベートーヴェンの速度指示により忠実にしていると言えなくもない..). メディア技術の拡張が新しい時間芸術を生み出すかもしれない。